(yamaさんの日記からの転載 続きです。①はこちら)
また「広島は軍事都市であったことが原爆投下の原因」などというトンデモ話がありますがこれも間違えです。広島が選ばれたのは当時まだ空襲を受けていない、原爆投下の威力を正確に評価できるような都市だったからです。それまでの民間人殺傷を目的とした都市空襲(明々白々な国際法違反の大虐殺)によって、破壊されていない都市が残り少なくなっていた中での選択の結果だったのです。
1945年春からアメリカは原爆投下目標の都市を検討し始めましたが、目標は原爆の効果を正確に測定できるように、直径3マイル(約4.8キロ)の市街地をもつ都市の中から選び、空襲を禁止しました。特にその市街地から周辺にも居住地域が広がっている地域で、有効な損害を与えられる地形を持つ事を条件としていました。
これにかなうのが京都、広島、長崎、小倉、新潟などでした。
「京都を原爆から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいますが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないことは、吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)に詳細に書かれていますので関心のおありの方はぜひご一読される事をオススメします。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったことがよくわかります。
また広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、以下のように指摘しています。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
上記の内容を補足する事実として、広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい実態を述べていらっしゃいます。
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」 橋爪文『少女・14歳の原爆体験記』(高文研)より
※ちなみに「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)については当時被爆者達から「診察すれども治療せず」と言われていました。
1995年、スミソニアン国立航空宇宙博物館での「原爆展」が開かれようとしていた際、当時のクリントン大統領は、「原爆展」の中止を支持するとともに、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と言明しています。
原爆の被害については戦後GHQの検閲により、長く日本人の目に触れられないように(その後触れられたとしても”日本も悪いことをしたから仕方が無いが”という贖罪意識の洗脳教育とセットで)なっていました。
アメリカでは今でも、原爆の被害を伝える内容の展示は、上記の「原爆展」のように公的な場では激しい非難とともに人々の目に触れられないような状況に追い込まれている為、多くのアメリカ人はその実態を知りません。(日本人でさえきちんと知らされていないのではないでしょうか。)
スミソニアンの「原爆展」で検閲された内容の一部は以下の通りです。
「私は道路で馬車を引いている人の死骸を見ましたが、その人は依然として立っていて、髪は針金のように逆立っていました。」
(長崎 黒川ひで)
「たくさんの生徒の目玉が飛び出ていた。彼女達の口は爆風で引き裂かれたままで、顔は焼けただれ、・・・着ているものは体から焼け落ち、・・・その光景はまさに地獄だった。」
(広島第一女高校長 宮川造六)
「人々の皮膚は黒焦げであった。髪も焼かれて無くなり、前から見ているのか後ろから見ているのかもわからない状態だった。腕を前に出して垂らし、皮膚は、腕だけでなく顔からも体からも垂れ下がっていた。・・・まるで歩く幽霊のようだった。」
(広島 八百屋店主)
外交の一手段であり、国際法の縛りがある「戦争」。そこでのルール違反である「戦争犯罪」。
一方、戦闘による殺害ではなく、国家の意思として計画的に実行される犯罪である「ホロコースト」。
(「ホロコースト」は、スターリンによるブルジョワ階級6,000万人大虐殺、毛沢東による文化大革命等での思想上の理由による2,000万人以上の大虐殺、カンボジアではポル・ポトによる800万人の自国民のうち250万人の虐殺、台湾では国民党による3万人の台湾人の虐殺、チベットやウイグルでは現在進行形の民族浄化が「戦争とは無関係」に行われています。)
原爆投下が戦争遂行とは全く無関係に、戦争のドサクサに紛れて「生体実験」として行われた、ナチの「ホロコースト」と同列の大虐殺であることは明白であると思います。
単なる「戦争の悲惨さ」として語られるのは、歴史的事実に反するだけでなく、アメリカの原爆投下の罪を軽減し、本当の平和を見えなくしてしまう行為であり、これは日本人として絶対に手放してはいけない認識だと思います。
余談ですが、1996年、広島の原爆ドームはアウシュビッツ収容所と並び、人類の「負の遺産」として世界遺産に指定されましたが、アメリカは最後まで世界遺産指定に反対していました。